美川町の成り立ち
本吉という名が初めて出てきたのは慶長五年(1600)で、旧名は藤塚村といい、源平合戦の寿永二年(1183)には、既に今湊とともに「源平盛衰記」にもでている。名の起こりは郷村名義書上帳(元禄十五年(1702)制作)によると、藤塚村に元吉寺があり、その元吉寺が本吉と改められたと書かれている。この本吉村が出来てから河口港として地の利が良く付近の村から移り住む者が年毎に増し、承応元年(1652)には、町政が行われ、その頃の町政が行われた所は、金沢、宮腰(金石)松任と本吉の四町であった。これから町は急激に発展し、船着き場の南町から中町、北町の三町が西の方からできてきた。藩が奉行所を置いたのが承応元年で寛文年間には、人家は217軒となり、延宝年間(1672~1680)には新町から浜町までの五町が増加し、元禄年間(1688~1703)には末広町、和波町ができて、現在の十町の形が出来上がった。
背景
美川町は明治4年に能美郡の湊村と石川郡の本吉町が合併し誕生しました、両町村は室町時代の日本最古の海洋法規集「廻船式目」三津七湊に登場する要港でした。その関係から賑わいのある美川町には、廃藩置県後明治5年に県庁舎が美川に設置され、県名を美川県で国に申請するも前年に誕生されたばかりの町名では都合が悪く、誕生した郡名の名前を取り石川県となりました。庁舎は1年間でしたが小学校や商工会等を設置し翌年金沢市へ移転となりました。
美川町(本吉)と 「おかえり祭り」
「おかえり祭り」と台車(だいぐるま)
5月第三土日には[藤塚神社]のおかえり祭りが開催されます。お神輿のご案内役を務めるのが13基の台車です。各町内に一基(新町だけが2基、職業別の建設組と設備組の各々1基づつ)
平成十三年十二月に石川県指定無形文化財となり、令和二年六月には文化庁の日本遺産「荒海を超えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前船寄港地・船主集落」に白山市が追加認定された際に、この祭りも其の構成文化財となりました。
一日目は神幸祭でお神輿は各家を一軒一軒家庭の繁栄と幸福をお祈りして御旅所で一泊されす。
二日目は10町ある「おかえり筋」の1町を通り本宮へ「お帰り」になります、これで「おかえり祭り」といわれています。
台車13基の説明
お祭りは何時頃からあったものか分からないが、天明(1782)の本吉絵図には高浜お旅所があり、文政2(1827)年には永代町の曳馬台車の記録有。現在規模の台車に修繕されたのは、古いもので北町台車の文政10(1827)年の記録あり、天保年間(1844)までに6~7台作られた様子である。大火、洪水等による焼失、破損があり、2~7回建造した町もあったと言われています。

















南町は町場に船泊が有り、藤塚神社が鎮座する南町から大きく拡大してくる。
承応元年(1652)本吉裁許が下されたころには、家並が南町、中町、北町にわかれる。
町には、奉行所や町会所等の役所が設けられ、明治五年には県庁舎が出来き石川県の中枢でした。
寺院では,浄願寺、明治期には廃仏毀釈迄藤塚神社内に世尊院が有りました。
南町の台車は屋根形で、飾り人形は「蘭陵王」を配している。人形は中国北斉の欄陵王長恭。長恭は、獰猛なかめんで天性の美貌を隠し、戦場に赴いたという。お祭り一日目の神幸祭には、仮面で顔は見えません、二日目の還幸祭では美貌のイケメンを見ることが出来ます。
中町は北前船主が多く住いしていた町筋で、田中伊兵衛、加登屋九兵衛、明翫屋家等。
現在では商工会、文化会館が有りIR美川駅前に位置しています。
美川郵便局の局舎の元は広瀬製作所社長宅が有り、昭和の初めに耕運機を発明し全国に販売されており、工場は今町東に有り美川中学校の運動場まで続き、当時としては美川最大の工場でした。
豊富な財力により建造された台車で北町の台車と共に豪華な台車の筆頭です。屋根はは入母屋屋根で、豪華な工芸を誇る。人形は南町と同じ「蘭陵王の舞」故事では、蘭陵王が勝利の喜びを舞にしたところ、国は豊かで平和になったと伝えられている。
祭一日目の神幸祭の時には頭に龍頭、鼻の丸い口髭をはやした面をつけ、二日目の還幸祭には面を外す。
北町は郎平辻に見るような一郎兵衛から九郎兵衛が連なった,北前船の船主たちが多くの豪商が住んでいた町筋です。
鈴木大拙の「自由と平和の鐘」世界的仏教学者梵鐘のある徳證寺がります。
財力のある台車は中町と共に工芸的にも素晴らしい価値にあふれる台車です。
天の岩戸神話で知られる「手力男尊「(たじからおのみこと)」を飾り人形としている。
屋根は、傘鉾です、
壁板の堆黒は美川仏壇の名工「湊屋村次郎」。鏡板の蒔絵、雅楽の前姿、「保屋美成」、美川の名工の遺作として起こっています。
新町は仏壇通りと言い仏壇作家が居住する多い街でした。別名獅子舞が盛んで獅子頭の名前から「五十鈴通り」とも言いました。通りはカラー舗装を施し賑わいを高めてります。
又、明治10年には「本願寺派松雲寺」を富山から手取川に大橋建造した斎藤栄蔵氏が連れてき建立した。
新町も北前船船を保有する商人が多く住み、その財力で台車を作ったと言われています。
台車は他町と違い東・西地区に各々一基づつあります。
西新町は文化文政(1804~1857)の頃建造屋根は傘鉾で鏡板は唯一つ「リンゴ型」人形は竹内宿禰(たけうちのすくね)応神天皇を抱く、竹内宿禰は応神天皇の御代に側近として長く政治の手助けを行った。
東新町は天保5年(1834)または安政5年(1858)に大火で焼失、大正10年に町内出身の瀬川吉次氏等が再建に立ち上がり完成した。笠鉾屋根で人形は日本古代史の伝統的英雄の「日本武尊(やまとたけるのみこと)」
神幸町は延宝年間(1673~1681)には「荒町」と言われていました。町筋では海面から一番高く信用金庫や自衛消防の車庫が有る。
台車は傘鉾形で人形は「猿田彦命」を飾り人形とし、鏡板には、唐獅子十二態がくみこまれている。
猿田彦命は、天孫降臨の際に道案内役をした。
今町は美川町の中心で寺院「正寿寺・本明寺」が有り、商店の多い町筋でした。
台車は天保年間に竹多家(紺屋三郎兵衛の末裔)から寄贈され、他の台車とは趣を異にして屋根・人形はなく、神額、鳥居、御幣、桜樹だ飾られており、神社の前景を現すので台車の巡行は常に行列の先頭です。
文政二年に町名が片原町から永代町に改められました。町は大正通りから安産川流域海岸まで延びています。海岸通り「四十物通りには発酵食の糠の漬物の工房 が並び、美川漁港が有ります。
江戸期の最大北前船主の紺屋三郎兵衛宅の跡地には美川福祉ステーション(よろーさ)が建っています。又、安産川の高台に北前船の舟会所(税関)が建ち並んでいたと記録された町です。川沿いでは名水百選の湧き水が湧き出ています。
台車は紺屋三郎兵衛が寄進し、階段の幅も広く鏡板回りの束も真っ直ぐであり、13台の中でも古い形態を残しています。傘鉾で人形はなく、大太鼓が乗せられ町内の子供が狩衣を着て祭囃子を奏でています、太鼓は道を浄めると言われています。
浜町は延宝年間(1673)には新町、片原町(永代町)、今町、荒町(神幸町)を加え町筋が出来上がっていた。
藤塚神社のお旅所や美川中学校、体育館、図書館、白山市美川市美川支所等が東区に有ります。
小ぶりな中にも、屋根の形や本体の造りに凝っている。
台車は屋根形で(千鳥破風屋根)本体や屋根が凝った造りの台車で楊貴妃の[からくり人形]
を飾る。
中国唐の時代に玄宗皇帝の妃となった楊貴妃は、中国絶世の美人として有名。
人形は大野弁吉作と言われいます。前輪の「わらび手」は他の台車に無い真っ直ぐ伸びた造りです。

末広町は和波町と同じ頃天明年間(1782)最後に出来た町で末浜町と呼ばれた時もある。
台車は傘鉾形で人形はなく、神鏡と榊、鳥居が飾られています。鏡はご神体で、榊、鳥居が飾られているので常にお神輿の前13番で巡行します。



和波町も最後に出来た町で、末広新町と呼ばれた事もあり、地面は海岸まで広く多くの住民が住んでいます。美川小学校「加賀藩本吉御蔵跡」・美川こども園・美川児童館等があります。
台車は天下統一を成し遂げた豊臣秀吉を飾り、昭和六年に地元高浜御旅所の松の木で再建された。傘鉾形の台車です。鏡板は金谷時雄の筆による、花鳥蒔絵が描かれています。


