湊町と今湊神社
手取川の左岸に位置する湊も、今湊と称したころ、
本吉湊(現美川町)と共に北前船の廻船業で榮へ、
手取川を挟んで一大港市を形造っていた。
この地は、石川県白山市の小舞子海岸を要し、青松
と白浜、雄大な夕日、自然に恵まれた景観と豊かな
地形です。
今湊は比楽湊に対する地名で古代の比楽湊に変わって
の「新しい」「今の」湊という意味を持つ。
又、「源平盛衰記」に平家追討時、今湊川を義仲軍は
「手と手を取り」合って平維盛軍を追撃し無傷で渡り
以後手取川と呼ばれれ様になる。(平家軍は増水する流
れで2千名とも言われる兵が流されたとの事です)


1. 集落の沿革
手取川河口の左岸に開けた湊地区は対岸の本吉美川とともに北前船の寄港地船主集落として栄えた町である。
集落の起こりは、手取川の流れが砂丘を貫いて河口となり船溜まりが出来たころで、11世紀の終わりごろと推察される。
河口に出来た新しい湊から今湊と呼ばれ、手取川の支流も今湊川と呼ばれた。
室町時代(1336~)に入るころ、今湊川は手取川の本流となって河口は日本海を行きかう廻船が寄港する良港になる。
イマミナトが時代とともにミナトと呼ばれるようになり、湊村から湊町として今日に至る

2.湊の北前船
室町時代は国内の物流が盛んになり、日本海沿岸を結ぶ廻船業が発展すると今湊にも廻船業が起こり、対岸の本吉とともに国内有数の港となって三津七湊の一つに数えられるようになる。
江戸時代の中頃には、今湊の船主たちも廻船業から北前船の商売に進出し、明治の中頃にかけて多くの北前船船主が現れて湊町は大いに繁栄する。戸数が300戸余りになった湊村は町立が認められるようになり、半分以上の住民は北前船の船乗りや家族で船乗り、船稼ぎの村だった。
江戸時代の終わりごろには10名の北前船船主が現れ、60数隻の船を北海道から大阪まで運航していた。
明治に入ると、河口が浅くなり船の出入りが困難になり北前船の船が減少していきます。やがて鉄道が敷かれ大型の鋼鉄船が進出してくると、北前船の商売が成り立たなくなり、船主たちは船を離して商売替えをして、湊村の北前船が消えていった。

3.熊田源太郎と呉竹文庫
湊村の北前船をリードしてきた熊田八郎兵衛が北前船の商売から撤退していく中で、後発の熊田源次郎は江戸時代の終わりから明治の始めにかけて船を買い集め、北前船の商売に進出してきた。
父の源次郎から受け継いだ初代熊田源太郎は北前船の商売を続けながら北海道で新しい事業を手掛けてきた。
明治36年、2代熊田源太郎が父の初代源太郎の急死により事業を受け継ぎ、北前船から新しい事業に転換して昭和の初めまで事業家として活躍した。
事業の傍ら、湊村の村長を2度にわたり務めた。また、若者の教育に尽力し青年の教育を目指して日就会を立ち上げ、小舞子夏季大学を開いた。
2代源太郎は大正11年に私設図書館「呉竹文庫」を開設し、買い集めた書籍1万数千冊を一般に公開した。呉竹文庫の建物は令和4年に国の登録有形文化財として登録されている。
7.今湊神社
平安時代の終わりころ、手取川の流れが変わって出来た河口に集落が誕生した。村人が海運の安全と五穀豊穣を願って八幡大菩薩を祀り「八幡神社」を建立した。
その後、白山開山の泰澄に関わる伝説で白山妙理大権現(白山ひめの神)を合祀するようになる。
江戸時代の始めの貞享3年(1686)砂に埋もれた社殿を村の肝煎の発起により再興。
北前船で繁栄していた文政5年(1822)北前船船主や村の長者の発起により社殿の建て替えが行われた。村人の奉仕で裏山を切り崩して敷地を拡げ、文政7年に神殿と拝殿
が立て直された。
その後昭和15年に紀元2600年を記念して金毘羅宮が建てられる。
更に昭和41年に梨木神社を建立して本殿に合祀されていた篠木宮を分祀した。
本殿に祀る神は八幡大菩薩と白山大権現の2柱であり、金毘羅宮と梨木神社が境内社として祀られている。
文政7年に建てられた本殿と拝殿、その時の棟札が白山市の文化財に指定されている。平成2年に白山市も追加認定された北前船日本遺産の構成文化財に登録られている。
神社の奉納されている主なものは以下の通りである。
① 「景龍の鎖鎌手裏剣奉納額」 文化2年(1805)奉納
湊村の武芸者、畑谷市右衛門景龍が武者修行で道場やぶりをしてきた高慢な心を詫びて鎖鎌を奉納したもの
② 「俳句額」 文政8年(1825)奉納
湊村の俳諧人が社殿再興を祈念して奉納
③ 「参道階段上の鳥居」 文久2年(1862)北前船船主の熊田屋吉右衛門が奉納
④ 「境内の灯篭」 文化4年(1807)から明治18年にかけ北前船船主、北前船船頭による奉納
⑤ 「灯台型の灯篭」 昭和18年(1943)北前船乗組員の末裔の船員に よる奉納
「日の本の、おのこと我も海に住む、
