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​日本泳法各流派の分布図

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自己紹介

以前の勤務先等

 石川トヨタ自動車株式会社・トヨタビスタ石川株式会社

 石川県立金沢泉丘高校に在学

 石川県白山市在住

 台湾 台中市出身

資格

 日本水泳連盟 日本泳法「錬士 和水 教士 如水」

所属

 日本泳法 清紀流 百万石日泳会 会長

 白山市観光ボランテイァガイド「美川おかえりの会」理事

 白山市ふるさと歴史研究協議会 理事

 白山市観光特使

 いしかわ移住応援特使

 いしかわ観光特使

 白山手取川ジオパーク認定ガイド

連絡先 ホームページ https://yoshin2233.wixsite.com/site 

    mail              yoshi-n22@asagaotv.ne.jp

​    フエースブック yoshimasa nishikawam

 日本泳法の紹介

 日本泳法は古くからあった泳ぎ方で、武術として、個人の泳速を競う事や、隊列を組んでの遠泳等、海や川での実用的な泳ぎで発達してきました。江戸時代になり太平の世が続いたときに芸術の域に達し、武芸十八般の中に数えられ水練と呼ばれていました。
 又、武士のたしなみとして「一足・二水・三胆・四芸」があります。
一足は健脚・二水は泳ぎ・ 三胆は精神力・四芸は武芸です、このように泳ぎが重要視され武道や芸術と同じような家元制度の流派が出来てまいりました。現在十三流派が日本水泳連盟に登録されています。
神統流(鹿児島)、小堀流踏水術(熊本)、山内流(豊後臼杵)、主馬神伝流(伊予大洲)神伝流(松山)、水任流(讃岐高松)、岩倉流(和歌山)、野島流(和歌山)、小池流(和歌山)、
観海流(伊勢津)、水府流水術(水戸)、向井流(江戸)、
水府流太田派(江戸)、私たちは山内流(清紀流)に所属しています。
清記流「百万石日泳会」の歩み

 戦後昭和20年石川県水泳協会 初代理事長の大分県出身、阿部壮次郎氏 (金沢市商工会議所専務理事)が金沢游泳所として開所され、清記流矢野派(山内流の分派で清紀流)として現在、引き継がれています。現在、前記の13流派が日本水泳連盟の正しい伝統と深遠な由緒を持つ流派となっており、無形文化財や保存会として活動し、日本泳法委員会が伝統の保存と普及に努めております。日本水泳連盟には先に山内流が認定されている関係で「百万石日泳会」は山内流として申請されている。白川源三郎著「図解 日本泳法」によれば90近くに及ぶ流派があり、一定の条件のもとに整理統合し現在の13流派になっております。 

 昭和31年、奈良県天理プールにおいて日本水泳連盟主催「第1回日本泳法大会」では阿部壮次郎先生は清紀流師範、競技役員として参加、清紀流の公開演技をすると共に、泳法競技に石田健、演技審査種目(現在の錬士資格審査)に原田信男、石田健の両氏が清紀流金沢の所属名のもとに参加しています。 

 日本水泳連盟 日本泳法競技規則 第1章 総則 4項 「競技出場者は13流派のいずれかに属することを原則とする」と明記されております。 平成18年3月百万石日泳会が発足するとともに清紀流石田健師範が日本水泳連盟へ申請し平成18年12月に山内流系の団体として承認され、13流派の臼杵山内流游泳所の承認のもと「山内流 百万石日泳会」の流派冠名のもと日本水泳連盟主催の3月開催の日本泳法研究会・8月開催の日本泳法大会参加できることとなりました。流派に所属するには諸条件が有り前述の通り大変難しいことです。幸い当地には先輩から引き継がれた「清紀流」の文化がありました。これからも継続、確立、地盤固めが大きな課題です。この事情をご理解のうえ、ご支援ご指導賜りますよう願っております。

山内流(清紀流)の特徴

 基本泳法は斜横泳・立ち泳ぎ・斜横泳は、頭は正面、手は手繰手、足は三節煽足、体位は斜横体で遠泳に適している。

 応用泳法として武具、旗、花笠等、立泳ぎは継煽足を使い持続性を持っている。砲術、弓術、水書、旗振り、衣服脱着等があります。

​平山師範 模範泳法

​平山師範大抜き手

​​関連連絡先

​平山師範3段抜き手

観光ガイド 
​白山市観光ボランティアガイド「美川おかえりの会」

「美川おかえりの会」とは

  白山市観光ボランティアガイド「美川おかえりの会」は、石川県白山市の美川地域を中心に観光案内やガイド案内を実施し、「美川まち歩きマップ」・「美川の歴史・観光物語」の冊子作り・「美川まちめぐり双六」の作成などの活動をしながら、地域貢献を継続しているボランティア団体です。美川の観光・歴史・文化・伝統工芸など発掘・発信し地域の活性化を目指しています。

  白山市美川地域は金沢市の西南に位置し、金沢駅よりIR北陸本線美川駅まで普通列車で約20分、小松空港より車にて約20分と好立地の位置にあります。

​ 藩政期には北前船の寄港地として大いに繁栄し、歴史・文化に富んだ地域です。

明治の初期には一時、石川県の県庁が置かれた時期もあり「石川県」の名称は旧美川町が「石川郡」に属していたため付けられた​と言われています。その象徴としての施設「石川ルーツ交流館」があります。

​ 歴史あるお祭「おかえり祭」をはじめ、猛毒のふぐの卵巣を糠漬けで食品化する伝統食品加工や、仏壇・刺繍・などの伝統工芸が盛んな町です。

​ また、手取川の河口付近は自然環境が豊で霊峰白山を源として豊富な地下水が湧き出る地域でもあり、食べ物が美味しく、生き物の種類が豊富で野鳥・魚類など多種多様の生物が見られるところでもあります。この地はジオパーク・日本遺産にも認定されています。

 私たち「美川おかえりの会」はそんな白山市美川地域を案内させていただきますので

是非お越しいただければ幸いです。

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​トミヨ(はりんこ)安産川に生息

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​手取川遡上の鮭

関連連絡先

① 美川おかえりの会  

② 美川商工会

③ 白山市観光連盟

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​美川郷土史研究会

白山市美川地区の自然と文化を研究し、その活動を通じ
​地域文化の発展に寄与する 。
   
白山市美川地区の神社の由来や町の成り立ちを紹介し、QRコードにも纏めて参ります。
 初回は蝶屋地区を紹介
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蝶屋地区

​ 霊峰白山を仰ぎ、自然に恵まれた田園風景の中で刻んできた蝶屋の歴史は小松市の多太神社の伝承された木曽義仲の寄進状に「蝶屋の庄十三町」の記載によったものであり、この寄進状の文字が村名に採られたと思われる。

 平安時代加賀における駅の設置については、「延喜式」兵部省式諸国傳馬条に登場しており、記事には都から北に向かって

​朝倉、潮津、安宅、比楽、田上、深見、横山に五匹ずつ駅馬が置かれたと記されています。この様にこの地は古代から重要な地域でした。

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平加町と安産日吉神社 IR美川駅から1.0Km

集落の沿革

 平安期の延喜式によれば、越前より加賀に入り、「朝倉、潮津、安宅を経て比楽に至り、やがて田上、横山に通ずる]と有り,ここに登場しております。

この「比楽駅・比楽湊」は水陸交通上の要地であった。手取川河口の北東部に位置し、中世には、貞治五年(1366)比楽村地頭細川刑部大輔に変わり、進士太郎左衛門為行が将軍足利義詮によって当村地頭職に補任された。その後、地頭職は結城比楽七郎尚隆の知行するところとなったが、在地の被官人が務め、近隣の西笠間保内松本の兵衛なる者を通じ回復を企てていた。戦国期の加賀一向一揆の中で、比楽は松本を中心とする門徒組織に組み込まれていた。この様な歴史背景のある村落でした。

​ 安産川周辺には湧水が湧き、そこにトミヨ(ハリンコ)や梅花藻が見ることが出来、自然豊かな町です。

安産日吉神社(ヤスマル ヒヨシ神社)

主祭神 大山咩命 大巳貴命

 創建は明らかでない。社内の絵馬は極めて彩色鮮やかな武将の戦闘ぶりを描いた密画で、盛勘助の筆によるとされている。そのほかに尾山屋香風等の俳句を書いた献額もある。奉納年月は大体嘉永の頃以後である。

 又、周辺には安産川が流れ「この水を頂くと難産しない」安産の神様として祀られています。

​ 安産の名前からして、全国には安産祈願の神社は多数あるが、安産の名称のままの神社はここだけで、全国から安産祈願に訪れております。

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​蓮池町と伊気神社 IR美川駅から2.1Km

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集落の沿革

 蓮池の集落は海岸寄りにある為、他の集落に比べて土地は狭く、昔から半農半漁の村であった。時代の伸展とともに道路の増設や河川の改修で工場の進出、住宅地、美川インターチェンジ横には美川の公園として最大のアプリコットパークなどが造成され活気が出てくる。公園内の、前川に架かる話題性のある朱色の「蓮華橋」が有り町内の宣伝PRになっています。

地名の由来

「今昔物語集」(巻十五)に「加賀某郡某郷」に一の女ありけり。某家に小池あり、某池の中に蓮花生たり。蓮花の盛に開ける時に成ぬれば、其れを以って其の郡の中なる諸寺に持参し、佛に供し奉りけり。云々とあり。又、当地は地下水位が高く、各所に清水の湧き出ているところが有り、昔は蓮花の自生した湿地が何カ所もあり、当時の住人に親しまれていたものと考えられる。地名については定説がないが、蓮池の地名もここから来たものと思われる。

伊気神社

主祭神 菅原道真

 菅原道真公を祀り明治十一年九月二日に神饌幣帛料共進神社に指定されている。

社記によれば菅原道真公の末裔である二木道専が砂丘地を開墾し村落を造成し菅原神社としたが、後年伊気神社と名前を変更した。

鹿島町と鹿島神社 IR美川駅から3.1Km

集落の沿革

 鹿島町は美川町の最北側で北陸自動詞道美川インターチェンジの場所に位置し古くから農業・漁業を生業としてきた。現在では通産省工場適地と指定され企業が誘致されそれによって宅地も増加。又、住宅団地「鹿島平・ボストンガーデン美川」が完成する。工場の進出や飲食店も周辺に出来、賑わいを高めた。

地名の由来

 「鹿島」の地名については定かでないが「加賀志徴」には「鹿島明神」神社名から名づけられたと言う。十六世紀の「天文日記」等にはすでに「鹿島村」と記され、又、「正保郷帳(1646)にも村名が見える。村名が「鹿島明神」から名づけられたかどうかは不祥である。しかし、「天保十年再建の棟札を見ると、再建の大工匠たちは当時海の道で往来のあった能登鹿島郡満仁村の人達であり、明治十二年の棟札にも、能登鹿島郡から鹿島村に移住した人達が棟梁として活躍したことが記されている。又、海の道によって、遠く島根県八束郡嘉島町との交流もあり、漁業者で、そのまま鹿島町に生活の場を持った人も一人や二人にとどまらない様であり、村名由来の一つの手がかりになるものと思われる。

鹿島神社

主祭神 伊弉那岐命 伊弉那美命 菊理媛命

 由緒沿革として、もとは白山社と称したが、明治十一年に鹿島神社と改称し、明治三十九年「神饌幣帛料共進神社」に指定された。

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西米光町 IR美川駅から2.2Km

 集落の沿革と地名の由

 大慶寺川と支流である平瀬川が流れ、「皇国地誌」によると、中世には西米光村として東隣の米光村と一村を形成しており、延徳二年(14地名の沿革90)後土御門天皇綸旨に米光村西方と見える。のち当村と東米光に分離し、俗に西方と呼ばれた。町内には古道、木曽街道が通り旧長屋村の中心をなしていた。

 昭和二十九年の町村合併以前も蝶屋村の中心であり、現在もショッピング店やガソリンスタンド・蝶屋小学校等が有り交通の便も充実している。

室町時代(十五~十六世紀)には、皇室領の荘園として日月蝕料所「皇室の日月の汚れを防ぐ為の茅の生産所」の記述が有り、京都東福寺の「加賀満福寺」が米光村の代官として寺院が創建された。その後一向一揆の時代に焼却され「加賀満福寺」跡の碑が米光白山神社近くに残されています。

日蝕料とは

 日蝕・月蝕の際御所をつつむ為の費用で、御所内部の非日常的な儀式のため語られることは少ないが、江戸時代の明和九年(1772)三月十五日の月蝕には十七枚のムシロを打ち付けたと記録あり、これは、あらゆる力の源として太陽に起った異常現象として古くから畏怖されており、日蝕・月蝕の際の光りを穢れたものと考え、この光から天皇を護るために筵で御所をツツム儀式が平安時代末期から江戸時代末期迄続けられ、西米光が筵の生産拠点であった事は興味深い。

米光白山神社

主祭神 白山比咩神社

 美川地区に於いて、ここだけが天台系の白山比咩神社となっています。平安時代・一向一揆時代の神仏混交の時代には、ほとんどの神社は天台宗系の日吉神社であった、(米光町では日吉神社)源平合戦時に戦火を逃れるために源氏の守り神の八幡神社に替えられている地域もある。

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井関町と諏訪神社 IR美川駅から2.2Km

地名の由来と沿革

 往古に井関は手取の新村として開発され手取村の枝村であった。

加賀藩の改作法の始まる以前に手取村領内とあり、又、正保三年(646)「郷村高辻帳」にも手取新村と記されており、昭和二十九年(1954)町村合併により美川町井関町として誕生した。

神社建立にちなんだ、三河の国一色村の一色が転化したものが地名の起こりと言われております。

 現在、町中に北陸新幹線が高架として通り状況が一変した。

高架下には、江戸時代、加賀の「千代女」が本吉(美川町)の俳句の師匠「北潟屋半推」宅へ通った時に「うら道によ起ことふたつ清水かな」句碑が建立されている。松任から北國街道を通り福留から本吉へ、木曽街道からの街道もあり、千代女は福留から通っていたこの道を裏道と呼んだ。

福留村と井関村の二カ所に湧き水が湧き出しており、真夏の暑い時期にここで喉を潤した句です。

 

井関諏訪神社

神社由来

「井関諏訪神社社記」にもとずき天禄年間(970~973)三河国一色村の茂四郎なる人、主命によりて、信州諏訪に赴き、諏訪明神の分霊を勧請して帰り、その邸内に祀る。後に故有りて加賀に来り、農に勤め土着の民と力を併せ、社殿を造営し挙村の氏神とするとある。一色から井関の神社名に、又町名にもなりました。

 

主祭神 建御名方神

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手取町と諏訪神社 IR美川駅から1.5Km

集落の沿革

 往古この村周辺に手取川が流れていたのに因むと伝えられている。(源平合戦の戦いで平維盛軍を源義仲軍が追撃し当時の比楽川の激流を手を取り合って渡り大勝しその後手取川となった)昭和時代に周辺に住宅団地が造成され昭和43年「美取団地」又、昭和50年には「若草町」が併設され人口増加に寄与された。

 

万法寺跡

 万法寺は、もと満福寺と称し越前の僧泰澄が白山開山後、この地は白山を遥拝できる西の聖地として満福寺(天台宗)を建立、その後承元三年(1209)親鸞が越後流罪の折この地で比楽川の氾濫で渡ることが出来ず満福寺に泊まり法話を聞き親鸞の人格を尊崇し、天台宗から浄土真宗に変わり万法寺と改めた。当時の伽藍は信州から来た海野小太郎住職であり、その後東西の分派により、東派は真教寺として松任へ、西は万法寺として福井へ遷る。

一寸八分の金仏

 正徳年間(1715)手取村の六郎衛門が万法寺の屋敷内に毎夜光物現れ、諸人何れも怖れ或るいはいぶかり、皆不思議に思いしが。この屋敷内を掘りける処、不思議かな御丈一寸八分の金仏一体土中より現れ給ふ。

 手取町では中田家に仏像と共に伝承されている縁起書があり、手取町の縁日として四月十日にお参りの会を実施しています。

 

諏訪神社

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末正町と末正春日神社 IR美川駅から1.8Km

集落の沿革

  末正の地名が史書に出てくるのは、足利時代の始め、親元日記に「杉原伊賀守方知行分、水島保内末正名事東神主、故なく違乱に及候之旨」という文書に出ているのが最初である。

  末正地区は、美川町の南東部に位置し、東には国道八号線が通り、

又、天候の良い日には白山連邦が美しく展望でき、心の休まる環境の良い所であり、のどかな町中に、新幹線高架が設けられ景観が一変した。

  蝶屋地区にはボランティア「櫻もりの会」が早咲き桜(河津桜)を植樹しています。末正町には桜並木の中に咄家「林家参平」一家の桜植樹も見られる。

 

 

末正春日神社

  神社の創建については既にあったかは不明。お隣り水島町の春日神社からの分派神社

  春日神社は藤原氏の氏神であり。その末社は全国に有り、末正神社もその末社である。

春日四柱神

  • 武甕槌命 (たけみかづちのかみ) 武人として崇敬されている神

  • 経津主命 (ふつぬしのみこと)  武甕槌命と共に大国主命を説得                                                                 して国譲りをさせた武人

  • 天児屋根命(あまつこやねのみこと)天孫降臨の際に従ってきた神。藤原氏の祖神

  • 比売神  (ひめがみ)      天児屋根の妻神

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長屋町と長屋八幡神社 IR美川駅から900m

集落の沿革

地名の由来

 古くは、「蝶屋」「朝屋」とも記されていた。「平家物語」の寿永二(1182)くだりには「てうやの庄」とあり、小松市多大神社文書では、「蝶屋庄十三町」と見える。

 長屋の地名が資料に現れるのは、この「平家物語」である。木曽義仲が「てうやの庄」を小松の多大八幡神社に寄進した記録からである。

 中世から近世の資料を見ると、長屋を通っていた北國街道が見えてくる。手取川の流れによって幾らかの変化があったとみられるが、今湊―長屋―米光―笠間ー宮保を経由する北國街道が有った。浜沿いの道と中通りの道があり、ここを木曽義仲の軍勢も通り、親鸞も歩んだのではなかろうか。

 そして、富樫氏の武将松坂八郎信遠がこの道で、長屋の一向一揆方の攻撃によって全滅し、これが守護富樫氏の滅亡につながったとも伝えられる。「長屋火伝説」という火の玉をこの戦いに関連づける伝承があることは興味深い。

 

町内の名所‣旧跡

・長屋火石碑

・世尊院

 明治の廃仏希釈により美川の藤塚神社から分離、昭和四十二年十月に長屋  

 町内に移転した。世尊院は真言宗に属して藤塚山王社の別当であった。

・美川温泉(本多の湯)

 コーヒー色の温泉で昭和四十六年開業

長屋八幡神社

主祭神 応神天皇

これで、蝶屋地区の紹介は終了です、この記事に尽き皆様方のご意見等を承ります。​​

​次回は、湊地区・美川地区を紹介します。

     出題文献 ・美川町史 ・港の歴史 ・蝶屋の歴史 ・美川文化史

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​湊町と今湊神社

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1. 集落の沿革

手取川河口の左岸に開けた湊地区は対岸の本吉美川とともに北前船の寄港地船主集落として栄えた町である。

集落の起こりは、手取川の流れが砂丘を貫いて河口となり船溜まりが出来たころで、11世紀の終わりごろと推察される。

河口に出来た新しい湊から今湊と呼ばれ、手取川の支流も今湊川と呼ばれた。

室町時代(1336~)に入るころ、今湊川は手取川の本流となって河口は日本海を行きかう廻船が寄港する良港になる。

イマミナトが時代とともにミナトと呼ばれるようになり、湊村から湊町として今日に至る。

  1. 手取川の左岸に位置する湊も、今湊と称したころ、

  2. 本吉湊(現美川町)と共に北前船の廻船業で榮へ、

  3. 手取川を挟んで一大港市を形造っていた。この地は、石川県白山市の小舞子海岸を要し、青松白浜、雄大な夕日、自然に恵まれた景観と豊かな地形です。

  4. 今湊は比楽湊に対する地名で古代の比楽湊に変わって「新しい」「今の」湊という意味を持つ。

  5. 又、「源平盛衰記」に平家追討時、今湊川を義仲軍は「手と手を取り」合って平維盛軍を追撃し無傷で渡り以後手取川と呼ばれれ様になる。(平家軍は増水する流れで千名とも言われる兵が流されたとの事です)

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2.湊の北前船

室町時代は国内の物流が盛んになり、日本海沿岸を結ぶ廻船業が発展すると今湊にも廻船業が起こり、対岸の本吉とともに国内有数の港となって三津七湊の一つに数えられるようになる。

江戸時代の中頃には、今湊の船主たちも廻船業から北前船の商売に進出し、明治の中頃にかけて多くの北前船船主が現れて湊町は大いに繁栄する。戸数が300戸余りになった湊村は町立が認められるようになり、半分以上の住民は北前船の船乗りや家族で船乗り、船稼ぎの村だった。

江戸時代の終わりごろには10名の北前船船主が現れ、60数隻の船を北海道から大阪まで運航していた。

明治に入ると、河口が浅くなり船の出入りが困難になり北前船の船が減少していきます。やがて鉄道が敷かれ大型の鋼鉄船が進出してくると、北前船の商売が成り立たなくなり、船主たちは船を離して商売替えをして、湊村の北前船が消えていった。

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3.熊田源太郎と呉竹文庫

湊村の北前船をリードしてきた熊田八郎兵衛が北前船の商売から撤退していく中で、後発の熊田源次郎は江戸時代の終わりから明治の始めにかけて船を買い集め、北前船の商売に進出してきた。

父の源次郎から受け継いだ初代熊田源太郎は北前船の商売を続けながら北海道で新しい事業を手掛けてきた。

明治36年、2代熊田源太郎が父の初代源太郎の急死により事業を受け継ぎ、北前船から新しい事業に転換して昭和の初めまで事業家として活躍した。

事業の傍ら、湊村の村長を2度にわたり務めた。また、若者の教育に尽力し青年の教育を目指して日就会を立ち上げ、小舞子夏季大学を開いた。

2代源太郎は大正11年に私設図書館「呉竹文庫」を開設し、買い集めた書籍1万数千冊を一般に公開した。呉竹文庫の建物は令和4年に国の登録有形文化財として登録さ

れている。

4.船乗りの町“湊”

北前船が衰退すると、湊の船乗りたちは蒸気船の船員として船乗り家業を続けた。昭和13年の北國新聞に「湊村に3戸に2人以上の船員あり、その数160名、世界的商船会社の船員として、1年の大部分を遠く故郷を離れて海上で過ごしていた」との記事がある。

太平洋戦争が始まると、船員たちは軍に雇われて徴用船に乗り南洋の前線に兵隊や物資を運んだ。

途中、米軍の潜水艦の魚雷で船が沈み、湊の船員の23名が命を落とした。

戦後、海運会社の復帰した船乗りたちは世界の海を航海し、日本の復興を支えた。

昭和28年、出光興産の日章丸の船長としてイランから石油を運んだ新田辰夫船長は湊の船乗りであり、「海賊と呼ばれた男」の主人公として小説や映画に描かれた。

5.美川町に合併、そして工場の進出

1字1村の湊村も昭和29年の秋、美川町、蝶屋村と合併し美川町字湊町となる。白砂青松の湊にも工場立地の波が押し寄せ、松林が開かれ砂丘が均されて工場が建てられあわせて住宅地も造成された。

昭和29年の人口1500人、300戸の湊村は、昭和40年になると人口3000人、戸数900戸の町に拡大、一方で松林が切り倒されて町の5割を占めていた緑地が2割程になっている。

6.小舞子海岸と海水浴場

明治30年、美川町内の料理旅館の店主であった餅田半次郎が松林に風流な楼「松韻亭」を建て、まっすぐに伸びる海岸線の砂浜と背後に広がる松林は、播州播磨の舞子浜に似た景勝だとして小舞子と名付けた。

その翌年に金沢小松間の北陸線が開通した。5年後の明治36年に小舞子駅が開設され、海水浴の期間だけ汽車が停車し、駅から歩いて10分ほどの小舞子海水浴場には近在の多くの人が訪れた。

平成8年日本の渚百選が発表され、小舞子海岸がそのなかに選ばれた。

7.今湊神社

平安時代の終わりころ、手取川の流れが変わって出来た河口に集落が誕生した。村人が海運の安全と五穀豊穣を願って八幡大菩薩を祀り「八幡神社」を建立した。

その後、白山開山の泰澄に関わる伝説で白山妙理大権現(白山ひめの神)を合祀するようになる。

江戸時代の始めの貞享3年(1686)砂に埋もれた社殿を村の肝煎の発起により再興。

北前船で繁栄していた文政5年(1822)北前船船主や村の長者の発起により社殿の建て替えが行われた。村人の奉仕で裏山を切り崩して敷地を拡げ、文政7年に神殿と拝殿

が立て直された。

その後昭和15年に紀元2600年を記念して金毘羅宮が建てられる。

更に昭和41年に梨木神社を建立して本殿に合祀されていた篠木宮を分祀した。

本殿に祀る神は八幡大菩薩と白山大権現の2柱であり、金毘羅宮と梨木神社が境内社として祀られている。

文政7年に建てられた本殿と拝殿、その時の棟札が白山市の文化財に指定されている。平成2年に白山市も追加認定された北前船日本遺産の構成文化財に登録られている。

神社の奉納されている主なものは以下の通りである。

① 「景龍の鎖鎌手裏剣奉納額」 文化2年(1805)奉納

  湊湊村の武芸者、畑谷市右衛門景龍が武者修行で道場やぶりをしてきた高慢な心を詫びて鎖鎌を奉納したもの

② 「俳句額」 文政8年(1825)奉納

  湊村の俳諧人が社殿再興を祈念して奉納

③ 「参道階段上の鳥居」 文久2年(1862)北前船船主の熊田屋吉右衛門が奉納

④ 「境内の灯篭」 文化4年(1807)から明治18年にかけ北前船船主、北前船船頭による奉納

⑤ 「灯台型の灯篭」 昭和18年(1943)北前船乗組員の末裔の船員に よる奉納

  「日の本の、おのこと我も海に住む、

​美川町(本吉)と 「おかえり祭り」

 美川町の成り立ち

 本吉という名が初めて出てきたのは慶長五年(1600)で、旧名は藤塚村といい、源平合戦の寿永二年(1183)には、既に今湊とともに「源平盛衰記」にもでている。名の起こりは郷村名義書上帳(元禄十五年(1702)制作)によると、藤塚村に元吉寺があり、その元吉寺が本吉と改められたと書かれている。この本吉村が出来てから河口港として地の利が良く付近の村から移り住む者が年毎に増し、承応元年(1652)には、町政が行われ、その頃の町政が行われた所は、金沢、宮腰(金石)松任と本吉の四町であった。これから町は急激に発展し、船着き場の南町から中町、北町の三町が西の方からできてきた。藩が奉行所を置いたのが承応元年で寛文年間には、人家は217軒となり、延宝年間(1672~1680)には新町から浜町までの五町が増加し、元禄年間(1688~1703)には末広町、和波町ができて、現在の十町の形が出来上がった。
 背景

​ 美川町は明治4年に能美郡の湊村と石川郡の本吉町が合併し誕生しました、両町村は室町時代の日本最古の海洋法規集「廻船式目」三津七湊に登場する要港でした。その関係から賑わいのある美川町には、廃藩置県後明治5年に県庁舎が美川に設置され、県名を美川県で国に申請するも前年に誕生されたばかりの町名では都合が悪く、誕生した郡名の名前を取り石川県となりました。庁舎は1年間でしたが小学校や商工会等を設置し翌年金沢市へ移転となりました。

​「おかえり祭り」と台車(だいぐるま)

​ 5月第三土日には[藤塚神社]のおかえり祭りが開催されます。お神輿のご案内役を務めるのが13基の台車です。各町内に一基(新町だけが2基、職業別の建設組と設備組の各々1基づつ)

​平成十三年十二月に石川県指定無形文化財となり、令和二年六月には文化庁の日本遺産「荒海を超えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前船寄港地・船主集落」に白山市が追加認定された際に、この祭りも其の構成文化財となりました。

 第一日目は神幸祭でお神輿は各家を一軒一軒家庭の繁栄と幸福をお祈りして御旅所で

一泊されます。

 二日目は10町ある「おかえり筋」の1町を通り本宮へ「お帰り」になります、これで「おかえり祭り」といわれています。

台車13基の説明

お祭りは何時頃からあったものか分からないが、天明(1782)の本吉絵図には高浜お旅所があり、文政2(1827)年には永代町の曳馬台車の記録有。現在規模の台車に修繕されたのは、古いもので北町台車の文政10(1827)年の記録あり、天保年間(1844)までに6~7台作られた様子である。大火、洪水等による焼失、破損があり、2~7回建造した町もあったと言われています。

南町は町場に船泊が有り、藤塚神社が鎮座する南町から大きく拡大してくる。
​承応元年(1652)本吉裁許が下されたころには、家並が南町、中町、北町にわかれる。
​町には、奉行所や町会所等の役所が設けられ、明治五年には県庁舎が出来き石川県の中枢でした。

寺院では,浄願寺、明治期には廃仏毀釈迄藤塚神社内に世尊院が有りました。
 
​南町の台車は屋根形で、飾り人形は「蘭陵王」を配している。人形は中国北斉の欄陵王長恭。長恭は、獰猛な仮面で天性の美貌を隠し、戦場に赴いたという。お祭り一日目の神幸祭には、仮面で顔は見えません、二日目の還幸祭では美貌のイケメンを見ることが出来ます。

​中町は北前船主が多く住いしていた町筋で、田中伊兵衛、加登屋九兵衛、明翫屋家等。
現在では商工会、文化会館が有りIR美川駅前に位置しています。

美川郵便局の局舎の元は広瀬製作所社長宅が有り、昭和の初めに耕運機を発明し全国に販売されており、工場は今町東に有り美川中学校の運動場まで続き、当時としては美川最大の工場でした。

 
 豊富な財力により建造された台車で北町の台車と共に豪華な台車の筆頭です。屋根はは入母屋屋根で、豪華な工芸を誇る。人形は南町と同じ「蘭陵王の舞」故事では、蘭陵王が勝利の喜びを舞にしたところ、国は豊かで平和になったと伝えられている。
​祭一日目の神幸祭の時には頭に龍頭、鼻の丸い口髭をはやした面をつけ、二日目の還幸祭には面を外す。

 

​北町は郎平辻に見るような一郎兵衛から九郎兵衛が連なった,北前船の船主たちが多くの豪商が住んでいた町筋です。
​鈴木大拙の「自由と平和の鐘」世界的仏教学者梵鐘のある徳證寺がります。

財力のある台車は中町と共に工芸的にも素晴らしい価値にあふれる台車です。
​天の岩戸神話で知られる「手力男尊「(たじからおのみこと)」を飾り人形としている。
​屋根は、傘鉾です、
​壁板の堆黒は美川仏壇の名工「湊屋村次郎」。鏡板の蒔絵、雅楽の前姿、「保屋美成」、美川の名工の遺作として起こっています。

新町は仏壇通りと言い仏壇作家が居住する多い街でした。別名獅子舞が盛んで獅子頭の名前から「五十鈴通り」とも言いました。通りはカラー舗装を施し賑わいを高めてります。

又、明治10年には「本願寺派松雲寺」を富山から手取川に大橋建造した斎藤栄蔵氏が連れてき建立した。

​新町も北前船船を保有する商人が多く住み、その財力で台車を作ったと言われています。

​台車は他町と違い東・西地区に各々一基づつあります。

西新町は文化文政(1804~1857)の頃建造屋根は傘鉾で鏡板は唯一つ「リンゴ型」人形は竹内宿禰(たけうちのすくね)応神天皇を抱く、竹内宿禰は応神天皇の御代に側近として長く政治の手助けを行った。

​東新町は天保5年(1834)または安政5年(1858)に大火で焼失、大正10年に町内出身の瀬川吉次氏等が再建に立ち上がり完成した。笠鉾屋根で人形は日本古代史の伝統的英雄の「日本武尊(やまとたけるのみこと)」


 

文政二年に町名が片原町から永代町に改められました。町は大正通りから安産川流域海岸まで延びています。海岸通り「四十物通りには発酵食の糠の漬物の工房が並び、美川漁港が有ります。
江戸期の最大北前船主の紺屋三郎兵衛宅の跡地には美川福祉ステーション(よろーさ)が建っています。又、安産川の高台に北前船の舟会所(税関)が建ち並んでいたと記録された町です。川沿いでは名水百選の湧き水が湧き出ています。

​台車は紺屋三郎兵衛が寄進し、階段の幅も広く鏡板回りの束も真っ直ぐであり、13台の中でも古い形態を残しています。傘鉾で人形はなく、大太鼓が乗せられ町内の子供が狩衣を着て祭囃子を奏でています、太鼓は道を浄めると言われています。

今町は美川町の中心で寺院「正寿寺・本明寺」が有り、商店の多い町筋でした。


​台車は天保年間に竹多家(紺屋三郎兵衛の末裔)から寄贈され、他の台車とは趣を異にして屋根・人形はなく、神額、鳥居、御幣、桜樹だ飾られており、神社の前景を現すので台車の巡行は常に行列の先頭です。

​神幸町は延宝年間(1673~1681)には「荒町」と言われていました。町筋では海面から一番高く信用金庫や自衛消防の車庫が有る。



台車は傘鉾形で人形は「猿田彦命」を飾り人形とし、鏡板には、唐獅子十二態がくみこまれている。
猿田彦命は、天孫降臨の際に道案内役をした。

​浜町は延宝年間(1673)には新町、片原町(永代町)、今町、荒町(神幸町)を加え町筋が出来上がっていた。
藤塚神社のお旅所や美川中学校、体育館、図書館、白山市美川市美川支所等が東区に有ります。



小ぶりな中にも、屋根の形や本体の造りに凝っている。
台車は屋根形で(千鳥破風屋根)本体や屋根が凝った造りの台車で楊貴妃の[からくり人形]
を飾る。
中国唐の時代に玄宗皇帝の妃となった楊貴妃は、中国絶世の美人として有名。
​人形は大野弁吉作と言われいます。前輪の「わらび手」は他の台車に無い真っ直ぐ伸びた造りです。

 
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​末広町は和波町と同じ頃天明年間(1782)最後に出来た町で末浜町と呼ばれた時もある。




台車は傘鉾形で人形はなく、神鏡と榊、鳥居が飾られています。鏡はご神体で、榊、鳥居が飾られているので常にお神輿の前13番で巡行します。
​鏡板には堆黒の技法が施されている。

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和波町も最後に出来た町で、末広新町と呼ばれた事もあり、地面は海岸まで広く多くの住民が住んでいます。美川小学校「加賀藩本吉御蔵跡」・美川こども園・美川児童館等があります。



台車は天下統一を成し遂げた豊臣秀吉を飾り、昭和六年に地元高浜御旅所の松の木で再建された。傘鉾形の台車です。鏡板は金谷時雄の筆による、花鳥蒔絵が描かれています。

 

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​船職組台車は、北前船の形を模り、屋根は「向唐破風」人形は中国春秋時代の文武両道の武将、呉の伍子宵(ごししょう)がのっており、高い舳先に黒ビロードをはり豪華な金具に五色の纏形(まといがた)の先に日吉社お使いの赤い猿を掲げています。紫の旗には白く染め抜いた船職組の文字も鮮やかに映え、舳先より両船艫(とも)までの下部には紺の波に千鳥の幕を翻しています。13台ある台車の中でも、豪華絢爛の美しい姿で船大工の手による最高傑作といわれています。



​船職組台車は、ゆるやかなカーブを描く唐破風(からはふ)という形式の屋根で人形は巫女の舞を台上で再現している。





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