
蝶屋地区
霊峰白山を仰ぎ、自然に恵まれた田園風景の中で刻んできた蝶屋の歴史は小松市の多太神社の伝承された木曽義仲の寄進状に「蝶屋の庄十三町」の記載によったものであり、この寄進状の文字が村名に採られたと思われる。
平安時代加賀における駅の設置については、「延喜式」兵部省式諸国傳馬条に登場しており、記事には都から北に向かって
朝倉、潮津、安宅、比楽、田上、深見、横山に五匹ずつ駅馬が置かれたと記されています。この様にこの地は古代から重要な地域でした。


平加町と安産日吉神社 IR美川駅から1.0Km
集落の沿革
平安期の延喜式によれば、越前より加賀に入り、「朝倉、潮津、安宅を経て比楽に至り、やがて田上、横山に通ずる]と有り,ここに登場しております。
この「比楽駅・比楽湊」は水陸交通上の要地であった。手取川河口の北東部に位置し、中世には、貞治五年(1366)比楽村地頭細川刑部大輔に変わり、進士太郎左衛門為行が将軍足利義詮によって当村地頭職に補任された。その後、地頭職は結城比楽七郎尚隆の知行するところとなったが、在地の被官人が務め、近隣の西笠間保内松本の兵衛なる者を通じ回復を企てていた。戦国期の加賀一向一揆の中で、比楽は松本を中心とする門徒組織に組み込まれていた。この様な歴史背景のある村落でした。
安産川周辺には湧水が湧き、そこにトミヨ(ハリンコ)や梅花藻が見ることが出来、自然豊かな町です。
安産日吉神社(ヤスマル ヒヨシ神社)
主祭神 大山咩命 大巳貴命
創建は明らかでない。社内の絵馬は極めて彩色鮮やかな武将の戦闘ぶりを描いた密画で、盛勘助の筆によるとされている。そのほかに尾山屋香風等の俳句を書いた献額もある。奉納年月は大体嘉永の頃以後である。
又、周辺には安産川が流れ「この水を頂くと難産しない」安産の神様として祀られています。
安産の名前からして、全国には安産祈願の神社は多数あるが、安産の名称のままの神社はここだけで、全国から安産祈願に訪れております。
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蓮池町と伊気神社 IR美川駅から2.1Km



集落の沿革
蓮池の集落は海岸寄りにある為、他の集落に比べて土地は狭く、昔から半農半漁の村であった。時代の伸展とともに道路の増設や河川の改修で工場の進出、住宅地、美川インターチェンジ横には美川の公園として最大のアプリコットパークなどが造成され活気が出てくる。公園内の、前川に架かる話題性のある朱色の「蓮華橋」が有り町内の宣伝PRになっています。
地名の由来
「今昔物語集」(巻十五)に「加賀某郡某郷」に一の女ありけり。某家に小池あり、某池の中に蓮花生たり。蓮花の盛に開ける時に成ぬれば、其れを以って其の郡の中なる諸寺に持参し、佛に供し奉りけり。云々とあり。又、当地は地下水位が高く、各所に清水の湧き出ているところが有り、昔は蓮花の自生した湿地が何カ所もあり、当時の住人に親しまれていたものと考えられる。地名については定説がないが、蓮池の地名もここから来たものと思われる。
伊気神社
主祭神 菅原道真
菅原道真公を祀り明治十一年九月二日に神饌幣帛料共進神社に指定されている。
社記によれば菅原道真公の末裔である二木道専が砂丘地を開墾し村落を造成し菅原神社としたが、後年伊気神社と名前を変更した。
鹿島町と鹿島神社 IR美川駅から3.1Km
集落の沿革
鹿島町は美川町の最北側で北陸自動詞道美川インターチェンジの場所に位置し古くから農業・漁業を生業としてきた。現在では通産省工場適地と指定され企業が誘致されそれによって宅地も増加。又、住宅団地「鹿島平・ボストンガーデン美川」が完成する。工場の進出や飲食店も周辺に出来、賑わいを高めた。
地名の由来
「鹿島」の地名については定かでないが「加賀志徴」には「鹿島明神」神社名から名づけられたと言う。十六世紀の「天文日記」等にはすでに「鹿島村」と記され、又、「正保郷帳(1646)にも村名が見える。村名が「鹿島明神」から名づけられたかどうかは不祥である。しかし、「天保十年再建の棟札を見ると、再建の大工匠たちは当時海の道で往来のあった能登鹿島郡満仁村の人達であり、明治十二年の棟札にも、能登鹿島郡から鹿島村に移住した人達が棟梁として活躍したことが記されている。又、海の道によって、遠く島根県八束郡嘉島町との交流もあり、漁業者で、そのまま鹿島町に生活の場を持った人も一人や二人にとどまらない様であり、村名由来の一つの手がかりになるものと思われる。
鹿島神社
主祭神 伊弉那岐命 伊弉那美命 菊理媛命
由緒沿革として、もとは白山社と称したが、明治十一年に鹿島神社と改称し、明治三十九年「神饌幣帛料共進神社」に指定された。





西米光町 IR美川駅から2.2Km
集落の沿革と地名の由来
大慶寺川と支流である平瀬川が流れ、「皇国地誌」によると、中世には西米光村として東隣の米光村と一村を形成しており、延徳二年(14地名の沿革90)後土御門天皇綸旨に米光村西方と見える。のち当村と東米光に分離し、俗に西方と呼ばれた。町内には古道、木曽街道が通り旧長屋村の中心をなしていた。
昭和二十九年の町村合併以前も蝶屋村の中心であり、現在もショッピング店やガソリンスタンド・蝶屋小学校等が有り交通の便も充実している。
室町時代(十五~十六世紀)には、皇室領の荘園として日月蝕料所「皇室の日月の汚れを防ぐ為の茅の生産所」の記述が有り、京都東福寺の「加賀満福寺」が米光村の代官として寺院が創建された。その後一向一揆の時代に焼却され「加賀満福寺」跡の碑が米光白山神社近くに残されています。
日蝕料とは
日蝕・月蝕の際御所をつつむ為の費用で、御所内部の非日常的な儀式のため語られることは少ないが、江戸時代の明和九年(1772)三月十五日の月蝕には十七枚のムシロを打ち付けたと記録あり、これは、あらゆる力の源として太陽に起った異常現象として古くから畏怖されており、日蝕・月蝕の際の光りを穢れたものと考え、この光から天皇を護るために筵で御所をツツム儀式が平安時代末期から江戸時代末期迄続けられ、西米光が筵の生産拠点であった事は興味深い。
米光白山神社
主祭神 白山比咩神社
美川地区に於いて、ここだけが天台系の白山比咩神社となっています。平安時代・一向一揆時代の神仏混交の時代には、ほとんどの神社は天台宗系の日吉神社であった、(米光町では日吉神社)源平合戦時に戦火を逃れるために源氏の守り神の八幡神社に替えられている地域もある。





井関町と諏訪神社 IR美川駅から2.2Km
地名の由来と沿革
往古に井関は手取の新村として開発され手取村の枝村であった。
加賀藩の改作法の始まる以前に手取村領内とあり、又、正保三年(646)「郷村高辻帳」にも手取新村と記されており、昭和二十九年(1954)町村合併により美川町井関町として誕生した。
神社建立にちなんだ、三河の国一色村の一色が転化したものが地名の起こりと言われております。
現在、町中に北陸新幹線が高架として通り状況が一変した。
高架下には、江戸時代、加賀の「千代女」が本吉(美川町)の俳句の師匠「北潟屋半推」宅へ通った時に「うら道によ起ことふたつ清水かな」の句碑が建立されている。松任から北國街道を通り福留から本吉へ、木曽街道からの街道もあり、千代女は福留から通っていたこの道を裏道と呼んだ。
福留村と井関村の二カ所に湧き水が湧き出しており、真夏の暑い時期にここで喉を潤した句です。
井関諏訪神社
神社由来
「井関諏訪神社社記」にもとずき天禄年間(970~973)三河国一色村の茂四郎なる人、主命によりて、信州諏訪に赴き、諏訪明神の分霊を勧請して帰り、その邸内に祀る。後に故有りて加賀に来り、農に勤め土着の民と力を併せ、社殿を造営し挙村の氏神とするとある。一色から井関の神社名に、又町名にもなりました。
主祭神 建御名方神


手取町と諏訪神社 IR美川駅から1.5Km
集落の沿革
往古この村周辺に手取川が流れていたのに因むと伝えられている。(源平合戦の戦いで平維盛軍を源義仲軍が追撃し当時の比楽川の激流を手を取り合って渡り大勝しその後手取川となった)昭和時代に周辺に住宅団地が造成され昭和43年「美取団地」又、昭和50年には「若草町」が併設され人口増加に寄与された。
万法寺跡
万法寺は、もと満福寺と称し越前の僧泰澄が白山開山後、この地は白山を遥拝できる西の聖地として満福寺(天台宗)を建立、その後承元三年(1209)親鸞が越後流罪の折この地で比楽川の氾濫で渡ることが出来ず満福寺に泊まり法話を聞き親鸞の人格を尊崇し、天台宗から浄土真宗に変わり万法寺と改めた。当時の伽藍は信州から来た海野小太郎住職であり、その後東西の分派により、東派は真教寺として松任へ、西は万法寺として福井へ遷る。
一寸八分の金仏
正徳年間(1715)手取村の六郎衛門が万法寺の屋敷内に毎夜光物現れ、諸人何れも怖れ或るいはいぶかり、皆不思議に思いしが。この屋敷内を掘りける処、不思議かな御丈一寸八分の金仏一体土中より現れ給ふ。
手取町では中田家に仏像と共に伝承されている縁起書があり、手取町の縁日として四月十日にお参りの会を実施しています。
諏訪神社

末正町と末正春日神社 IR美川駅から1.8Km
集落の沿革
末正の地名が史書に出てくるのは、足利時代の始め、親元日記に「杉原伊賀守方知行分、水島保内末正名事東神主、故なく違乱に及候之旨」という文書に出ているのが最初である。
末正地区は、美川町の南東部に位置し、東には国道八号線が通り、
又、天候の良い日には白山連邦が美しく展望でき、心の休まる環境の良い所であり、のどかな町中に、新幹線高架が設けられ景観が一変した。
蝶屋地区にはボランティア「櫻もりの会」が早咲き桜(河津桜)を植樹しています。末正町には桜並木の中に咄家「林家参平」一家の桜植樹も見られる。
末正春日神社
神社の創建については既にあったかは不明。お隣り水島町の春日神社からの分派神社
春日神社は藤原氏の氏神であり。その末社は全国に有り、末正神社もその末社である。
春日四柱神
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武甕槌命 (たけみかづちのかみ) 武人として崇敬されている神
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経津主命 (ふつぬしのみこと) 武甕槌命と共に大国主命を説得 して国譲りをさせた武人
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天児屋根命(あまつこやねのみこと)天孫降臨の際に従ってきた神。藤原氏の祖神
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比売神 (ひめがみ) 天児屋根の妻神


長屋町と長屋八幡神社 IR美川駅から900m
集落の沿革
地名の由来
古くは、「蝶屋」「朝屋」とも記されていた。「平家物語」の寿永二(1182)くだりには「てうやの庄」とあり、小松市多大神社文書では、「蝶屋庄十三町」と見える。
長屋の地名が資料に現れるのは、この「平家物語」である。木曽義仲が「てうやの庄」を小松の多大八幡神社に寄進した記録からである。
中世から近世の資料を見ると、長屋を通っていた北國街道が見えてくる。手取川の流れによって幾らかの変化があったとみられるが、今湊―長屋―米光―笠間ー宮保を経由する北國街道が有った。浜沿いの道と中通りの道があり、ここを木曽義仲の軍勢も通り、親鸞も歩んだのではなかろうか。
そして、富樫氏の武将松坂八郎信遠がこの道で、長屋の一向一揆方の攻撃によって全滅し、これが守護富樫氏の滅亡につながったとも伝えられる。「長屋火伝説」という火の玉をこの戦いに関連づける伝承があることは興味深い。
町内の名所‣旧跡
・長屋火石碑
・世尊院
明治の廃仏希釈により美川の藤塚神社から分離、昭和四十二年十月に長屋
町内に移転した。世尊院は真言宗に属して藤塚山王社の別当であった。
・美川温泉(本多の湯)
コーヒー色の温泉で昭和四十六年開業
長屋八幡神社
主祭神 応神天皇


これで、蝶屋地区の紹介は終了です、この記事に尽き皆様方のご意見等を承ります。
次回は、湊地区・ 美川地区を紹介予定します。
出題文献 美川町史・美川文化史・蝶屋の歴史
